僕は料理ができない | 自粛日記その1



 タイトルの通りである。僕は料理ができない。

 インターネット環境はある。したがってレシピの情報にはアクセスできる。文字も読めるし手も動くので、レシピに沿って作業をすることは可能であろう。
 なんなら手先は器用な方である。幼稚園の卒園アルバムには、「将来の夢 プラモデルつくるひと」と書いてある。いかに手を動かすことが好きであったかが伺える。

 それでも「料理ができる」とは言い難い。日頃まったく料理をしないのである。僕はいわゆる馬鹿舌で、大抵のものを美味しがる。しょっちゅう行っているお店のしょっちゅう食べているメニューですら「よくそんなに“新鮮に”美味しそうにできるね」と周りから驚かれる。そういったわけで大抵のものを美味しいと思って食べており、自分で美味しさを追求しようというモチベーションがなく、料理もほとんどしていない。

 しかし、外出自粛で自宅で作業をしていると、外で買って食べるのでは食事のパターンが限られてしまう。体調もそうだが、なにより心に良くない。「なにかつくってもいいかもしれない」そう思って気晴らしも兼ねて向かったスーパーで、ピーマンに“呼ばれた”。いいだろう、そう思った僕はそのきれいな緑色をカゴにいれた。さて、どう料理したものか。悩んだがその時間は短かった。牛ひき肉にも呼ばれたのである。100g当り218円。これが高いのか安いのかもわからない。しかしこれらがあればなにかしら料理の体をなしたものはつくれるだろう、そう考えてスーパーを後にした。

 「偶然に身を開く」
 これは僕の愛読書の著者、精神科医の泉谷閑示氏の言葉である。頭で考える計画性や合理性が尊重されすぎ、身体および心がないがしろにされやすい現代社会。もっと即興性に身を委ね、身体や心に即した行動を試みてはどうかというメッセージである。
 その即興性のもと、僕はピーマンと牛ひき肉をカゴに入れた。これでなにかしらの料理をつくったとき、自分がどう感じるのかを楽しみに帰路に着いた。

 午後8時過ぎ。もともと自宅での作業が苦手であり、あまり集中できず不完全燃焼感を感じながら終えた仕事を背に、キッチンへ向き合った。

 「めんどくせ~~~~~~~~~~~~」

 それが心の声であった。
 しかし買ったのはピーマンと牛ひき肉。すぐ傷んでしまうのではないか?今日食べないと味が落ちてしまうのではないか?もったいないのでは?一番やる気のある今日やらないと、そのまま冷蔵庫に放置してしまうのでは??
 これのどこが心の声に従っているのだろう!買った食材をだめにしたくないという、計画性と合理にごりごりに囚われた思考である。とはいえ外に出て別の食事を買いに行きたいわけでもない。重い腰を上げて料理に取り掛かった。


 なにしろ普段料理をしないので、調理から始めることができない。作業は調理器具を洗うところから始まった。無事まな板と包丁を洗い終え調理に取り掛かるが、袋に入ったピーマンを見ながら、
 「あ、ピーマン4つしか入ってないんかw 肉詰め4つじゃ肉余るじゃんどうしよw」
そう思っていた。その30秒後、「ピーマンの肉詰めを作るにはピーマンを半分に切り分けるため、肉詰めは計8個になる」ということがわかった。具材が余ることを心配している場合じゃない。

 中の種を取り除く。無論正しい方法など知るはずがなく、勘のみで作業は続いていった。

 そして、肉詰めである。「ピーマンの肉詰め」という料理において、もっとも象徴的であり、ピーマンの肉詰めをピーマンの肉詰め足らしめているのがこの作業といっても過言ではないのではないだろうか。この料理におけるいわば花形であり、界隈ではこの工程へ従事できることはある種の光栄と見なされるに違いない。
 感謝の念を持ちながら、恭しく牛ひき肉を詰めていく。諸兄姉には、「牛ひき肉、調理しないの?」そう思われた方がいるかもしれない。そう、しないのである。なぜならめんどくさいから。玉ねぎも片栗粉も混ぜたりなんかしない。なんてったって、うちにないから。これから外に買いに行くのでは、めんどくさで往路で死んでたことだろう。

 着々と牛ひき肉を詰めていく。さすが「プラモデルつくるひと」を志しただけある。淀みなく指先は動き、滞りなく牛ひき肉は白いトレーから緑の野菜へと移っていく。
 しかし、僕の心境はとても興味深いものであった。

 「食べ物で遊んでいる罪悪感」が胸中にあったのである。

 どういうことだろう。僕は困惑を覚えた。これはれっきとした調理である。ふざけているつもりも全くなかった。
 ただひとつ思い当たるのは、「確信がなかった」ことだ。「調理法はよくわからないが、自分がやってみたいからとりあえずやってみる」、そういった不確実性のなか調理を進め、もしかするとそれによって食材を駄目にするかもしれない。ピーマンと牛ひき肉に迷惑をかけるかもしれない。その可能性がありながら自分は好奇心で調理を続けている。その自分のことだけ考えて物事を進める責任感のなさ、それがこの罪悪感をもたらしたのかもしれない。

 存外な罪悪感を抱えながら8つすべてのピーマンに肉を詰めた。白い楕円のお皿には、それらがかわいらしく並んでいた。
 洗いたての輝かしいフランパンに、いつのだかわからないオリーブオイルを敷く。レシピにはサラダ油と書いてあった気もするが、それがどうだというのか。ここにそんなものは無い。当たり前だ。温まったと思われるタイミングで肉詰めをフライパンへ手際よく並べる。うん、いい感じだ。確かな料理している感がある。そのときの僕はさぞかし「料理している顔」をしていたことだろう。

 そんなささやかな高揚感もすぐに消え去った。

 きっと油を入れすぎているのだろう。フライパンからは、爆竹のような、怒りを伴っているような音が放たれているのだ。かといって油を取り除く術も知らない。ただただ恐怖を心に抱えながら距離をとり、時間が過ぎ去るのを待つことしか僕にはできなかった。

 「いつまで焼けばいいだろう?」
 その疑問が心に浮かぶのも時間の問題だった。爆竹パーティーを繰り広げるフライパンから顔を覗かせるお肉たちは、あいも変わらずそのかわいらしいピンク色のままだからである。
そう。僕は過ちを犯した。ピーマンを下にして焼いていたのである。
 いくら料理ができない僕にもそれが過ちであることは明白だった。なぜなら焼きたいのはお肉だからである。お肉が焼きたいのにお肉を焼いていないのである。

 そこからの行動は速かった。すぐさま箸を手に取り彼らの救出に向かう。いや、救出もなにもそう差し向けたのは僕だ。懺悔の気持ちで胸をいっぱいにしながらひとつの肉詰めを裏返した。

 海苔。

 真っ先に思い浮かんだのは、海苔の自生した、海水に濡れた黒く控えめに光る海岸の岩であった。あのビビッドなグリーンは見る影もない。焦げが、油でテラテラと光っていた。
 ことは急を要した。持ちうる最大の速さで全てを裏返す。裏返した後の肉の焼ける速さに驚き思わず声が出たことは、ここで告白しておこう。


 ついにここまで来た。このためにこれまでがあった。
 まずは食材そのものの味を知ろう、そう思った僕はなにも調味料を使わず、ひとつ目を口に運んだ。
 美味しい、そう思ったのは自分でも実に意外であった。こんなに勘だけで作った料理が美味しいものなのだろうか、と。焼く面を間違えたことにより、無駄に長く焼かれたにも関わらずお肉からは肉汁が溢れた。岩とまで称された焦げたピーマンは、見た目の凄惨さとは裏腹に、不思議と焦げ特有の嫌な苦さは感じなかった。このピーマンは、大したことないのに大騒ぎするタイプのやつだったのかもしれない。その後、家にあったいつのだかわからない調味料の先鋭達に協力を請いながら、美味しく食事を終えた。


「こんなに美味しかったのだから、また料理をしよう」とは思っていない。しかし、「意外と楽しかったから、また気が向いたら料理しようかな」とは、ちょっとだけ思っている。