「あけおめ」なんて意味不明、という話

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 ものごと自体には意味なんかなくて、観測者である人間が意味をつけいているだけに過ぎない、とおもっている。
 その観点からすると、「新年明けましておめでとう」なんてとても意味がわからない。いつもと同じように日が沈んでまた昇っただけなのに、「おめでたい」のか。そうなのか。そもそも時間、日付、一年、という周期そして概念は、そこにある自然に対して人間が勝手に使い始めただけのものだし、その「後付け」の数値がまたひとつインクリメントされただけだ。

 けどそこに「おめでたさ」を見出すって、とってもハッピーな発明だとおもう。「ただ日にちがかわっただけ」「ただひとくぎり終えただけ」なのに、「おめでとう!」なんて言って挨拶したりする。花火を上げたりする。みんなで集まっていつもと違うご飯を食べたりする。お酒を飲んだりする。楽しい。これってとってもすてきなことだとおもう。
 そんな感じで、なんでもない日にも理由をつけて「記念日」にしてしまえばいい。楽しむチャンスに変えてしまえばいい。

 楽しむチャンスで言えばハロウィンも。近年どんどん規模もおおきくなってきて盛り上がりが増してきている。「大人がコスプレしてさわぐ行事じゃない」なんて言われたりしているけれど、「楽しむ機会」が増えるっていうのはとてもすてきなことだとおもうし、よその所のイベントを、「自分たちが楽しめるものに変える」っていうスキルは、楽しく人生を過ごす上でとても価値があるとおもう。あらゆるイベントを取り込んで、「行事だから」って言って、「はっちゃける口実」や「楽しめる機会」を増やして、みんながハッピーになっちゃえばいいとおもう。日本はそういうことが得意だとおもうし、むしろそれに自覚的になって、能動的にそういった機会を増やしていけたら、世の「楽しい」の総和は増すんじゃないだろうか。

 「新年明けましておめでとう」なんて意味がわからないけど、とてもすてきだよね、という話でした。

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 と、「あけおめなんて意味不明」を起点に長々と書きましたが、もっともっと昔には、しっかりと「意味」があったのでしょう。またみんなで新年を迎えられたことを、本気で祝っていたんでしょう。今年も無事に過ごしてまた来年をみんなで迎えられることを、祈ったんでしょう。「あけましておめでとう」にそれほどの思いを込めて言うひとが、現代にどれだけいるでしょうか。けど、それでいいのだと思います。物事は移ろいます。「あけましておめでとう」に込められていた思いの残り香に気づくことは、今この時代に生きているわたしたちにのみ許されている贅沢です。

 「意味を見出すこと」は、かなり人間的で文化的な行動だと思います。「あけおめ」の例で言えば、「時間」という文化・風習・システムの上に、「めでたい」という意味を見出しています。
 この「意味を見出す」という行為は、とても価値ある行為だなあと思います。犬や猫が1月1日を迎えたことを喜んだりするでしょうか。しませんね。犬猫はしませんが、人間はそれを「喜ぶ」ことができるのです。これは革命的です。言うなれば、人間が使える「錬金術」です。何もなかったところから「喜び」をつくりだせているのですから。

 以前、阿修羅像を観たことがあります。顔やら腕やらがいっぱいあるあの彼です。上野の博物館に来ていました。その彼が展示されている部屋は、まさしく人の山で、押し合いへし合いの末ようやく彼の元まで辿り着くことができる、そういった状態でした。
 なぜこんなことをしているのでしょう? 見ず知らずのひとたちと体をくっつけ合い、にじりにじりと大きな置物へ近づく。パーソナルスペースをまったく無視したこの行為が、身体という自然にとって快であるわけがありません。それでもひとは、阿修羅の彼を見るのです。モナリザさんに会いにいき、パンダにカメラを向けるのです。
 どれもこれも、わたしたちがそこに「意味を見いだせている」からに他なりません。「錬金術」の結果作り出せた黄金が、そうさせているのです。
 願わくばその術を、上手につかえる人間でありたいな、とおもいます。

 というわけで今日は、「あけおめ」を言いに祖父母のおうちへ行ってきます。