僕は料理ができない | 自粛日記その1



 タイトルの通りである。僕は料理ができない。

 インターネット環境はある。したがってレシピの情報にはアクセスできる。文字も読めるし手も動くので、レシピに沿って作業をすることは可能であろう。
 なんなら手先は器用な方である。幼稚園の卒園アルバムには、「将来の夢 プラモデルつくるひと」と書いてある。いかに手を動かすことが好きであったかが伺える。

 それでも「料理ができる」とは言い難い。日頃まったく料理をしないのである。僕はいわゆる馬鹿舌で、大抵のものを美味しがる。しょっちゅう行っているお店のしょっちゅう食べているメニューですら「よくそんなに“新鮮に”美味しそうにできるね」と周りから驚かれる。そういったわけで大抵のものを美味しいと思って食べており、自分で美味しさを追求しようというモチベーションがなく、料理もほとんどしていない。

 しかし、外出自粛で自宅で作業をしていると、外で買って食べるのでは食事のパターンが限られてしまう。体調もそうだが、なにより心に良くない。「なにかつくってもいいかもしれない」そう思って気晴らしも兼ねて向かったスーパーで、ピーマンに“呼ばれた”。いいだろう、そう思った僕はそのきれいな緑色をカゴにいれた。さて、どう料理したものか。悩んだがその時間は短かった。牛ひき肉にも呼ばれたのである。100g当り218円。これが高いのか安いのかもわからない。しかしこれらがあればなにかしら料理の体をなしたものはつくれるだろう、そう考えてスーパーを後にした。

 「偶然に身を開く」
 これは僕の愛読書の著者、精神科医の泉谷閑示氏の言葉である。頭で考える計画性や合理性が尊重されすぎ、身体および心がないがしろにされやすい現代社会。もっと即興性に身を委ね、身体や心に即した行動を試みてはどうかというメッセージである。
 その即興性のもと、僕はピーマンと牛ひき肉をカゴに入れた。これでなにかしらの料理をつくったとき、自分がどう感じるのかを楽しみに帰路に着いた。

 午後8時過ぎ。もともと自宅での作業が苦手であり、あまり集中できず不完全燃焼感を感じながら終えた仕事を背に、キッチンへ向き合った。

 「めんどくせ~~~~~~~~~~~~」

 それが心の声であった。
 しかし買ったのはピーマンと牛ひき肉。すぐ傷んでしまうのではないか?今日食べないと味が落ちてしまうのではないか?もったいないのでは?一番やる気のある今日やらないと、そのまま冷蔵庫に放置してしまうのでは??
 これのどこが心の声に従っているのだろう!買った食材をだめにしたくないという、計画性と合理にごりごりに囚われた思考である。とはいえ外に出て別の食事を買いに行きたいわけでもない。重い腰を上げて料理に取り掛かった。


 なにしろ普段料理をしないので、調理から始めることができない。作業は調理器具を洗うところから始まった。無事まな板と包丁を洗い終え調理に取り掛かるが、袋に入ったピーマンを見ながら、
 「あ、ピーマン4つしか入ってないんかw 肉詰め4つじゃ肉余るじゃんどうしよw」
そう思っていた。その30秒後、「ピーマンの肉詰めを作るにはピーマンを半分に切り分けるため、肉詰めは計8個になる」ということがわかった。具材が余ることを心配している場合じゃない。

 中の種を取り除く。無論正しい方法など知るはずがなく、勘のみで作業は続いていった。

 そして、肉詰めである。「ピーマンの肉詰め」という料理において、もっとも象徴的であり、ピーマンの肉詰めをピーマンの肉詰め足らしめているのがこの作業といっても過言ではないのではないだろうか。この料理におけるいわば花形であり、界隈ではこの工程へ従事できることはある種の光栄と見なされるに違いない。
 感謝の念を持ちながら、恭しく牛ひき肉を詰めていく。諸兄姉には、「牛ひき肉、調理しないの?」そう思われた方がいるかもしれない。そう、しないのである。なぜならめんどくさいから。玉ねぎも片栗粉も混ぜたりなんかしない。なんてったって、うちにないから。これから外に買いに行くのでは、めんどくさで往路で死んでたことだろう。

 着々と牛ひき肉を詰めていく。さすが「プラモデルつくるひと」を志しただけある。淀みなく指先は動き、滞りなく牛ひき肉は白いトレーから緑の野菜へと移っていく。
 しかし、僕の心境はとても興味深いものであった。

 「食べ物で遊んでいる罪悪感」が胸中にあったのである。

 どういうことだろう。僕は困惑を覚えた。これはれっきとした調理である。ふざけているつもりも全くなかった。
 ただひとつ思い当たるのは、「確信がなかった」ことだ。「調理法はよくわからないが、自分がやってみたいからとりあえずやってみる」、そういった不確実性のなか調理を進め、もしかするとそれによって食材を駄目にするかもしれない。ピーマンと牛ひき肉に迷惑をかけるかもしれない。その可能性がありながら自分は好奇心で調理を続けている。その自分のことだけ考えて物事を進める責任感のなさ、それがこの罪悪感をもたらしたのかもしれない。

 存外な罪悪感を抱えながら8つすべてのピーマンに肉を詰めた。白い楕円のお皿には、それらがかわいらしく並んでいた。
 洗いたての輝かしいフランパンに、いつのだかわからないオリーブオイルを敷く。レシピにはサラダ油と書いてあった気もするが、それがどうだというのか。ここにそんなものは無い。当たり前だ。温まったと思われるタイミングで肉詰めをフライパンへ手際よく並べる。うん、いい感じだ。確かな料理している感がある。そのときの僕はさぞかし「料理している顔」をしていたことだろう。

 そんなささやかな高揚感もすぐに消え去った。

 きっと油を入れすぎているのだろう。フライパンからは、爆竹のような、怒りを伴っているような音が放たれているのだ。かといって油を取り除く術も知らない。ただただ恐怖を心に抱えながら距離をとり、時間が過ぎ去るのを待つことしか僕にはできなかった。

 「いつまで焼けばいいだろう?」
 その疑問が心に浮かぶのも時間の問題だった。爆竹パーティーを繰り広げるフライパンから顔を覗かせるお肉たちは、あいも変わらずそのかわいらしいピンク色のままだからである。
そう。僕は過ちを犯した。ピーマンを下にして焼いていたのである。
 いくら料理ができない僕にもそれが過ちであることは明白だった。なぜなら焼きたいのはお肉だからである。お肉が焼きたいのにお肉を焼いていないのである。

 そこからの行動は速かった。すぐさま箸を手に取り彼らの救出に向かう。いや、救出もなにもそう差し向けたのは僕だ。懺悔の気持ちで胸をいっぱいにしながらひとつの肉詰めを裏返した。

 海苔。

 真っ先に思い浮かんだのは、海苔の自生した、海水に濡れた黒く控えめに光る海岸の岩であった。あのビビッドなグリーンは見る影もない。焦げが、油でテラテラと光っていた。
 ことは急を要した。持ちうる最大の速さで全てを裏返す。裏返した後の肉の焼ける速さに驚き思わず声が出たことは、ここで告白しておこう。


 ついにここまで来た。このためにこれまでがあった。
 まずは食材そのものの味を知ろう、そう思った僕はなにも調味料を使わず、ひとつ目を口に運んだ。
 美味しい、そう思ったのは自分でも実に意外であった。こんなに勘だけで作った料理が美味しいものなのだろうか、と。焼く面を間違えたことにより、無駄に長く焼かれたにも関わらずお肉からは肉汁が溢れた。岩とまで称された焦げたピーマンは、見た目の凄惨さとは裏腹に、不思議と焦げ特有の嫌な苦さは感じなかった。このピーマンは、大したことないのに大騒ぎするタイプのやつだったのかもしれない。その後、家にあったいつのだかわからない調味料の先鋭達に協力を請いながら、美味しく食事を終えた。


「こんなに美味しかったのだから、また料理をしよう」とは思っていない。しかし、「意外と楽しかったから、また気が向いたら料理しようかな」とは、ちょっとだけ思っている。


「あけおめ」なんて意味不明、という話

f:id:kimidoribanana:20180101231616p:plain



 ものごと自体には意味なんかなくて、観測者である人間が意味をつけいているだけに過ぎない、とおもっている。
 その観点からすると、「新年明けましておめでとう」なんてとても意味がわからない。いつもと同じように日が沈んでまた昇っただけなのに、「おめでたい」のか。そうなのか。そもそも時間、日付、一年、という周期そして概念は、そこにある自然に対して人間が勝手に使い始めただけのものだし、その「後付け」の数値がまたひとつインクリメントされただけだ。

 けどそこに「おめでたさ」を見出すって、とってもハッピーな発明だとおもう。「ただ日にちがかわっただけ」「ただひとくぎり終えただけ」なのに、「おめでとう!」なんて言って挨拶したりする。花火を上げたりする。みんなで集まっていつもと違うご飯を食べたりする。お酒を飲んだりする。楽しい。これってとってもすてきなことだとおもう。
 そんな感じで、なんでもない日にも理由をつけて「記念日」にしてしまえばいい。楽しむチャンスに変えてしまえばいい。

 楽しむチャンスで言えばハロウィンも。近年どんどん規模もおおきくなってきて盛り上がりが増してきている。「大人がコスプレしてさわぐ行事じゃない」なんて言われたりしているけれど、「楽しむ機会」が増えるっていうのはとてもすてきなことだとおもうし、よその所のイベントを、「自分たちが楽しめるものに変える」っていうスキルは、楽しく人生を過ごす上でとても価値があるとおもう。あらゆるイベントを取り込んで、「行事だから」って言って、「はっちゃける口実」や「楽しめる機会」を増やして、みんながハッピーになっちゃえばいいとおもう。日本はそういうことが得意だとおもうし、むしろそれに自覚的になって、能動的にそういった機会を増やしていけたら、世の「楽しい」の総和は増すんじゃないだろうか。

 「新年明けましておめでとう」なんて意味がわからないけど、とてもすてきだよね、という話でした。

---

 と、「あけおめなんて意味不明」を起点に長々と書きましたが、もっともっと昔には、しっかりと「意味」があったのでしょう。またみんなで新年を迎えられたことを、本気で祝っていたんでしょう。今年も無事に過ごしてまた来年をみんなで迎えられることを、祈ったんでしょう。「あけましておめでとう」にそれほどの思いを込めて言うひとが、現代にどれだけいるでしょうか。けど、それでいいのだと思います。物事は移ろいます。「あけましておめでとう」に込められていた思いの残り香に気づくことは、今この時代に生きているわたしたちにのみ許されている贅沢です。

 「意味を見出すこと」は、かなり人間的で文化的な行動だと思います。「あけおめ」の例で言えば、「時間」という文化・風習・システムの上に、「めでたい」という意味を見出しています。
 この「意味を見出す」という行為は、とても価値ある行為だなあと思います。犬や猫が1月1日を迎えたことを喜んだりするでしょうか。しませんね。犬猫はしませんが、人間はそれを「喜ぶ」ことができるのです。これは革命的です。言うなれば、人間が使える「錬金術」です。何もなかったところから「喜び」をつくりだせているのですから。

 以前、阿修羅像を観たことがあります。顔やら腕やらがいっぱいあるあの彼です。上野の博物館に来ていました。その彼が展示されている部屋は、まさしく人の山で、押し合いへし合いの末ようやく彼の元まで辿り着くことができる、そういった状態でした。
 なぜこんなことをしているのでしょう? 見ず知らずのひとたちと体をくっつけ合い、にじりにじりと大きな置物へ近づく。パーソナルスペースをまったく無視したこの行為が、身体という自然にとって快であるわけがありません。それでもひとは、阿修羅の彼を見るのです。モナリザさんに会いにいき、パンダにカメラを向けるのです。
 どれもこれも、わたしたちがそこに「意味を見いだせている」からに他なりません。「錬金術」の結果作り出せた黄金が、そうさせているのです。
 願わくばその術を、上手につかえる人間でありたいな、とおもいます。

 というわけで今日は、「あけおめ」を言いに祖父母のおうちへ行ってきます。



才能とか幸せについて考えました


考えることが好きです。

新しく出会った事柄が、これまで考えてきた理論(と言うほど大層なものではないが便利なのでそう呼ぶ)でもうまく説明できたり、なんならその理論を補強する材料になったり、はたまたその理論に当てはまらないが故に新しく考える材料になったり(そしてまた理論は補強される)。

そんな一連の過程が好きです。

最も興味があるのが「幸せとはなにか」です。

18歳のときに行ったスピーチでは、「足るを知る」等、幸せになるには「満足すること」が重要そうであるがそれは社会における成功を阻むのではないか?といった内容を発表して、19歳のときにクラスメイトと行ったプレゼンテーションでは、過去の選択に対する後悔への解決手段として、「能動的であること」の重要性を発表していました。

「幸せ」「満足」そしてそれらと「社会的成功」との関連性、これらに興味があったことがわかります。

そこへ「才能」への興味が加わったのは、ケン・ロビンソン氏の動画『学校教育は創造性を殺してしまっている』(*1) を見たことがきっかけでした。

この動画では、次のような例が紹介されています。

教室でじっとしていることができず学習障害と判断された女の子が、親に連れられて医師に診てもらうことになりました。医師はラジオに合わせて楽しそうに踊る女の子を見て、彼女の母親に言います。「お母さん、娘さんは病気なんかじゃありません。ダンサーですよ」「ダンススクールに通わせてあげなさい」ダンススクールに行かせてもらえることになった彼女はその後、様々なダンスを習得し、ロイヤルバレエのソリストになり、自身の会社も立ち上げます。そして「キャッツ」「オペラ座の怪人」といった偉大なミュージカルを手がけ何百万人もの人に感動と喜びを与えることとなりました。

この動画を見て私は、教育の重要性を強く感じたとともに、「教育」、そして「才能を活かすこと」に興味を抱くようになりました。

「自身の才能を見出し、それを活かすことができている状態はとてもイキイキとして幸せなんじゃないだろうか?」「この例のように、誰もがイキイキとしてかつ質の高いアウトプットが出せる状態になれるのだとしたら、そうなれていない状態というのは社会的損失なのではないだろうか?」「全人類がそういった状態になれたら、とても素敵なんじゃないろうか?」
ぼんやりと上記のようなことを考えるようになりました。

22歳になった今、その「才能」と「幸せ」と「成功」に関して、ある程度考えがまとまってきてスッキリとした状態になりました。似たようなことを考えている方の思考の材料になれればと思い、下記にその考えをまとめていきます。

結論としては、シンプルで、既にいろんなところで言われていて、それはそれはありきたりなものになりました。

いわゆる「Follow your passion」です。

「自分の心に正直に、自分がわくわくできるものに取り組んでいく」ことこそが、才能を活かし幸せと成功に繋がるのだと考えるに至りました。

あまりにもありきたりで、使い古された内容でしょう。私も幾度となく耳にしてきました。
ですが、かつて私にとってそれは、言うなれば結論だけ知らされている状態で、なぜ大事なのかよくわかりませんでした。「まあ大事そうなのはなんとなく理解できるけどいまいちピンとこない。。」といった感覚でした。
それが今は、「なぜ大事なのか」を理解できた気がしています。解までの「式の変形行程」がわかった感覚です。

ではその、「自分の心に正直に、自分がわくわくできるものに取り組んでいくことが、才能を活かし幸せと成功に繋がる」とは具体的にどういった要素で構成されているのか述べていきます。下記のような構成になっていると私は考えています。

 ■ 自分がなににわくわくするのか把握している
  ↓
 ■ それに取り組む
  ↓
 ■ 結果でなく、過程から喜びを感じることができる
  ↓
 ■ 長期的に取り組むことができるので上達できる
  ↓
 ■ 人の役に立つことができる

上記の内容において大きく関わってくるのが、「才能とはなにか」です。下記に、哲学研究者の内田樹氏が、村上龍氏『タナトス』(集英社)を読まれた上で書かれた、才能に関する記述を引用します。

 村上龍の『タナトス』(集英社)を読み終えた。
 村上龍は「才能」にこだわる作家である。
 今回の小説のテーマの一つは「才能がない」とはどういうことか、という問である。
 「才能がない」人間とは「自分には才能がない」という事実を直視できない人間のことである(おや、今さっき聞いたような)。彼らは「努力」によって才能の不足を何とか埋め合わせることができると思っている。
 反対に、「才能がある」人間は、自分にはどのような才能があり、どのような才能が欠けているかを知っており、それが「ある」ことも「ない」ことも、個人的努力でどうこうできる水準の問題ではない、ということを知っている。
 「才能」というのは「努力できること」を含んでいる。
 ある活動のためにいくら時間を割いて、どれほどエネルギーを注いでも、まったく苦にならないで、それに従事している時間がすみずみまで発見と歓喜に満たされているような活動が自分にとって何であるのかを知っていて、ためらわずそれを選びとる人間のことを私たちは「才能のある人間」と呼ぶのである。
 私はこのような村上龍の意見には全面的に賛成である。
  (内田樹『子どもは判ってくれない』文春文庫 から引用)


例え、技術の習得が速かったり、造作なく素晴らしい結果を出すことができたとしても、本人が結果ではなく過程に喜びを感じられていなければ、「才能がある」とは呼び得ないのです。なぜならそれは、長期的な観点で見たときに「継続」がなされず、そして「継続」なしには偉大な成果はないからです。

「達人のサイエンス」という本では、人がある技術を習得していき、「達人」と呼ばれる領域に達するまでの過程を下記のように説明しています。

f:id:kimidoribanana:20170505201513p:plain


上記の図の様に、一気に上達する段階、そしてその後に訪れる「プラトー」と呼ばれる上達の無い段階、そしてそれを抜け出た先に再び訪れる上達の段階。学習の過程とは、この繰り返しであると説明されています。

上手に実行することができ、それによって得られた賞賛や報酬といった「結果」からしか喜びを感じられないというケースでは、いずれ必ず訪れるプラトー期を超えることができず、上達に限界が存在します。ですが、結果ではなく、従事しているその時間、その過程そのものが楽しい、そういったケースではプラトー期を超えて成長を続けていくことができます。

少し前にアンジェラ・ダックワース氏の提唱する「GRIT」という概念が注目を浴びました。成功者と呼ばれる人々は、なにが違うのか?という観点のもとなされた研究です。結論は、「やり抜く力=GRIT」こそが大きな要因である、とされています。
これこそまさに、上述した「過程から喜びを引き出せる。よって継続することができ上達が続いていく」という概念を裏付けるものなのではないかと考えています。

11歳でプロスケートボーダーとしてデビュー、30年以上のキャリアの中で、現在定番となっている数々のスケボーの「技」を編み出したスケボー界のレジェンド、ロドニー・ミューレン氏は次のように語っています。

「もし心から好きでやっていて、人に見られようが見られまいが、カネをもらおうがもらうまいが気にしなければ、そういうものはいずれ向こうからやってくる。でもとにかくそのプロセスを楽しむこと! もし目立つためとか、報酬がほしくて何かを始めれば、そういうものに足をすくわれる。最終的にはカネを求めていないやつらが勝つんだ。だって本当のイノヴェイションや根性は、プロセスを愛するところから生まれるんだもの」
 (WIRED『スケボー界のレジェンドが、シリコンヴァレーのカリスマになるまで』 から引用)(*2)


このように、「過程から愉悦を引き出すことができる自身のわくわくに従事し、継続することで上達が続いていく」のだと考えています。「喜びを感じられることに従事する」と言っているわけですから、これだけでも幸せには繋がるのですが、ここからもう一歩先を考えていきます。それが、「わくわくを活かして人の役に立つ」ことです。

 ■ 自分がなににわくわくするのか把握している
  ↓
 ■ それに取り組む
  ↓
 ■ 結果でなく、過程から喜びを感じることができる
  ↓
 ■ 長期的に取り組むことができるので上達できる
  ↓
 ■ 人の役に立つことができる

自分がわくわくできるものを見つけ出し、進んでそれに時間を使っていく。素晴らしいことだと思っています。ですがそれだけでは、「どこか欠けた」幸せしか感じられないのではないかと思います。それを埋めうるピースとなるのが「他者貢献」です。わくわくすることに取り組み、上達したそのスキルを「他者のために使う」。岸見一郎氏/古賀史健氏の『嫌われる勇気』では他者貢献について次の様な記述があります。

 そして思い出してください。われわれは、自分の存在や行動が共同体にとって有益だと思えたときにだけ、つまりは「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができる。そうでしたね?
 つまり他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。
 (岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気』ダイヤモンド社 から引用)

「心の持ちようで如何様にも幸せになれる」というのはよく聞きますが、少し優しくないなと思っています。理論的には理解はできるのですが、実感としてあまり現実的に感じません。心の持ちようだけに収束させるのではなく、お金や承認欲求といった身も蓋もないことに対しても考えていきたい。お金はあったほうが嬉しいですし、承認欲求を無いものとするのは不健康です。そういった観点のもと、前述の「他者貢献」はわかりやすい指標になると考えます。自身がわくわくして取り組んだ結果得たスキルを、どうやったらひとの役にたたせることができるのか?そう考えて取ったアクションで、もしかすると金銭的な見返りがあるかもしれませんし、承認欲求も満たされるかもしれません。もちろんそれらを目的にしてしまうと元も子もありませんが、副次的なものとして享受する分には、とても健全なサイクルなのではないかと思います。

以上が、Follow your passionまでの導出過程でした。

ここからは、「才能」と「わくわく」に焦点をあてて少し掘り下げていきたいと思います。

今この時代は、わくわくに翼が与えられるような、本当に素晴らしい時代だと思います。なにかに興味を持ったら、その場で無料でWikipediaが概要を教えてくれますし、少し込み入ったことを知りたければWebで論文だって読めます。自動翻訳の精度の目覚ましい向上によって、海外の文献だってもっと手軽に読めるようになるでしょう。MOOCsの興隆により高等教育のコンテンツは誰もが享受できる流れが生まれています。SNSで同好の士を簡単に見つけられる上に、資金面での障壁にはクラウドファンディングという画期的かつ素敵な仕組みがあります。クリエイターの参入障壁になっていたような高価なツール類も、代替できるフリーソフトがあったり、月々のサブスクリプション制になることで利用がしやすくなっていたりします。そもそも誰もがスマホという高性能なデバイスを持つというインフラが整い、それに伴い誰もがマスへの情報発信のチャネルを持てるようになりました。(さらに言えばちょっと前の時代までは、職業や結婚相手だって制限されていたわけですから、本当に素晴らしい時代です)
「人」「お金」「場所」「言語」「教育」に関して、少しずつ確実に、望めば得られるという理想の状態に近づいています(世界でのベーシックインカムへの注目とそれに伴う実証実験も興味深いですね)。
才能が「発現」しやすい世界に近づいていると思うのです。

これもよく言われる内容ですが、現代の教育は、現代の社会に合っていません。高度成長期の社会的要請に対応するべく組まれた教育カリキュラムは、均質でオペレーション通りの行動ができる労働力を輩出してきました。日本経済を取り巻く環境も変わり、現在はそのギャップから生じた亀裂が次第に大きくなり全体に影響を及ぼし始めています(もちろん労働力の育成の観点だけで語るのはまったく不十分であるし、教育をより良くしようと取り組まれてらっしゃる方々によって、アクティブラーニング、高大接続など様々な試みがなされている最中である)。

そんな現代において、「才能」や「わくわく」のなんたるかを知っておくことの重要性は、より高まっているのではないかと思います。

「才能」の性質のひとつとして、「過程に喜びを見いだせること」というのは前述した通りですが、「コントロール不可」であり「社会的評価軸とは別」であるというのも忘れていはいけない点だと思います。すなわち才能には、「選んだり、意図して操作することができない」、「もちあわせた才能が、社会的に評価されるものかはわからない」という性質があるということです。

才能とはいくつかの点で「顔」に似ていると思います。生まれもったものであり、個人の努力で変えることのできるものではありません。また、その「顔」が、社会的に評価される=イケメン・美女と称されるかどうかはわかりません。同様に才能も、自分が備えているものが世間でかっこいいとされているものとは限らないのです。自分がわくわくし、心躍り、いくらでも取り組めてしまうことが、例え社会で「ダサい」と評されていても、自身のその心踊った感覚こそが正義であり、従うべき主であると思います。そもそも自身の価値判断基準に社会や他人の基準を持ち込むことは往々にして不幸に繋がります。自身の持ちあわせたそのカードたちを受け入れることこそが「自己受容」だと思います。

顔に比べて難しいのが、「才能」のカードたちは目に見えずわかりにくいという点です。日々の自身の活動と心情の観察の蓄積の中にしか、その姿をうかがい知ることができません。これは才能に限ったことではありません。幸せそのものに言えることだと思います。自分がなにをしていると嬉しいのか、ひたすら試行して集まったサンプルから傾向を把握する、このサイクルが重要なんだと思います。そして、自分の持ちあわせたものを、どうするとその可能性を最大限発揮できるのか、どうするとひとの役に立てるのか、あくまでクールでリアルに身も蓋もない直実な問として捉えて、解を探し続けることが重要で、面白い部分だと思います。

---

以上のような考えに、僕は至りました。この考えに至り、けっこう気が楽になりました。以前は、取り組むこと、過ごす時間全てに意味を求めてしまい、一人で勝手に息苦しくなっている瞬間がよくありました。「これをやってて将来の役にたつのだろうか」「もっと"効率的"に過ごさないと」「もっと"意味のあること"をしないと」といった具合に。ですが今では、楽しければそれで価値があると思えるようになり、逆に、楽しくないのであれば社会的に良いとされているものでも拒んだほうが良いと思えるようになりました。

生活全てをわくわくするもので埋めていきたいと思っていますが、まだまだです。以前テレビでステーキけんの井戸実社長が、若者からの「趣味(楽しみ)はなんですか」といった質問に「会社経営自体が楽しい、(他の社長の方々)ここにいるひとたちみんなそうだと思うよ」といった旨の解答をされてらっしゃいました。とてもかっこいいしすてきだなと思いました。社会人になって3年目になりますが、誰かの作ってくれたビジネスモデルに乗っかってお給料をもらうのでは、親に養ってもらってるのとそう変わらないなと感じています(実際に違うのかどうかではなく僕が得ている感触の話です)(実際は「本気でやりたいことやっていない」「自分でビジネスをドライブしきれていない、それに伴い貢献"感"が足りない」の2点の要素が影響していると思います)。
だからこそ自分の本当に好きなこと、取り組みたいことがなんなのかをはっきりと理解していて、本気で取り組んで、それで食べていっている人達は非常にかっこいいと思います(創業者であろうとなかろうと)。そういった人達と一緒にお仕事したいなと思います。

この文章で言っているのはぶっちゃけ、「楽しいことだけしていたい」という内容です。こういった内容をいけしゃあしゃあと語れるのは、日本という一定以上安定した国に生まれ、教育を受けさせてもらえて、職につくことができているからにほかなりません。マズローの5段階の欲求の下層部分が満たされているからです。そういった恵まれた環境に生まれることができたからこそ、ノブレス・オブリージュを大事にしたいなと思っています(と同時にそれにより他者貢献感も得ることができるでしょう)。自分にできることからPay it forwardしていきたいと思っています。

こういった文章を公開するのも、他人からしたら当たり前かもしれないことをわざわざ長文にして、はずかしいなと思う気持ちもあるのですが、才能とか幸せってなんだろ、どういう仕組になってるんだろうと考えるのが僕にとって「楽しい」のは確かなので、follow themしてみました。

僕が尊敬している、Linuxを開発したリーナス・トーバルズ氏が、Linuxが生まれて育つ過程を綴った彼の著作に、次のようなタイトルを付けています。
 「JUST FOR FUN」 (それがぼくには楽しかったから)
ここまで述べてきたこと全てを言い表すような、とてもシンプルですてきなタイトルだと思います。

ここまで読んだくださった方!本当にありがとうございます!!
(「自分はこう思う」「こういう観点もあるよ」「こういうケースはどう考えるんだ」等 ご意見頂戴できますと何度も読み返して喜びます)

---

*1 https://www.ted.com/talks/ken_robinson_says_schools_kill_creativity?language=ja
*2 http://wired.jp/special/2016/rodney-mullen

* 引用させて頂いた書籍以外に、バックボーンになっているもの
- 泉谷閑示『反教育論』講談社現代新書
 ・ 社会の軸と自分の軸について。その他示唆に富むこといっぱい。大好きな本。
- マイク・マクマナス『ソース』出版:ヴォイス
 ・ わくわくに従うことについて。ちょっと大げさな表現だが、衝撃を受けた本。
- 森一貴さんのブログ『たまのもり』、上述の『ソース』を知ったのはこちらの記事からでした( http://dutoit6.com/183 )。


* その他気になっていること、今後考えていきたいこと
- 上記で述べた内容を、なにか「自然現象」で例えられないか? その現象の振る舞いを見ることで、自分が気付いてなかった側面を発見することができそう。また、自然は人間が考えたものよりはるかに洗練されているので、より優れた仕組みを発見できそう。メタファーって大好き。
- 死の対極は新陳代謝であるととらえて、「新陳代謝」をキーワードによく生きるうえでのヒントや経済活動において重要そうなことの着想を得られないか
- バイオミミクリー
- 海外の教育 ヨーロッパ、特に北欧 「個性を伸ばす」教育の現状
- 言語の成り立ち 各国言語の関係性 大和言葉
- 神話素 ジョーゼフ・キャンベル氏
- 良質なサイエンス・フィクション作品 未来を想像するのは現状の延長で考えるよりこういった作品から刺激を受けて考えるほうが確かだと思う
- 人々がわくわくを見つけるプラットフォーム 人々が恩送りをできるプラットフォーム